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CAE ユニバーシティ

数学と産業技術、そして科学計算

九州大学マス・フォア・インダストリ研究所 所長 若山 正人

産業数学や数学応用をとりまく国際的・国内的背景

現代社会を牽引する高度テクノロジーを支える科学的知見 の、ほぼすべてにおいて、その本質的部分は数学を礎石として います。換言すれば、数学を言語として、さらには研究の指針 として用いる科学や技術領域が、かつてないほど広がったと 考えるのが妥当です。実際、数学と工学・技術との関係は、以 前は物理学を中心とする科学の介在を必要とするものに限定 されていました。しかしながら、人類が高性能コンピュータを 獲得し、数学と諸科学・技術の直接的な結びつきが飛躍的に 高まった今日、数学なくして、科学の進展、科学・技術イノベー ションは考えられないというのが国際的な認識です。それは、 欧米はもとより東アジアでも近年急速に増加している数学系 の研究所設立や、たとえば中国・韓国等における数学への著 しい重点投資などにも見られることです。列挙すれば、昨年 (2011年)創立されたBrown大学「計算実験数学研究所」、ま た、中国では、数年前に設立された数学系4研究所「数学研究 所」「応用数学研究所」、「システム数学研究所」、「科学技術計 算数学研究所」を統合強化のため「数学・システム科学研究院」 に改編し、さらに一昨年度は「国家数学・学際科学センター」 を新設、韓国でも「国立数理科学研究所」が設立されています。 中国の政策は、前者は、純粋研究も応用研究も数学であり分割 することは得策ではないという考えを、後者の新設は、現代の 科学・技術において数学がいかに欠かせぬものになっている かを示すものと考えてよいでしょう。

このような時代背景の下、すでに数学と産業界の連携では 先を進む欧米等を核として、国際的にもさらなる産業数学の 振興とそれを担う研究者育成の重要性が明確に指摘される こととなりました。たとえば2008年7月のOECD/Global Science Forumによる“Mathematics in Industry”の報告書 公表と提言はその一つです。これを一つの契機として、その後、 提言の実現を目指すための国際的活動が、世界の数学コミュ ニティを中心に積極的に進められています。わが国でも、遅れ ばせながら漸く、昨年8月19日に閣議決定された『第4期科 学技術基本計画』において、領域横断的な科学技術の強化とし て、数理科学研究の推進がうたわれることになりました。欧米 等では普通に見られることですが、国の科学・技術政策の指 針となる政府の重要文書「科学技術基本計画」に“数理科学研 究”の推進の重要性が盛り込まれたのは初めてです。

研究所概要

九州大学マス・フォア・インダストリ研究所(Institute of Mathematics for Industry: 略称はIMIです)は、このような なか、産業界の要請を受けた数学の推進と、あるいはそこから 刺激を受けて生まれる未来の産業技術を担う新しい数学の最 先端研究を行う研究所として、昨年4月に設立されました。国 内の数学系研究所としては、統計数理研究所と京都大学数理 解析研究所に続くものですが、産業数学を標榜する基礎研究 所としては(上述の中国「数学・システム科学研究院」を別に すれば、アジアにおいても)最初のものです。

IMIは、所属専任教員のこれまでの研究業績・基盤研究とこ れまでの研究活動に着目し、すでに企業等と深く連携し産業 数学の研究に従事している「数学テクノロジー先端研究部門」、 応用を目的に計算機をも多く利用し理論研究を推進する「応 用理論研究部門」、さらに、純粋数学の基盤から広がる応用に 強い関心を抱きながら基礎的研究を推進する「基礎理論研究 部門」の3部門構成となっています。18世紀のイギリスで始 まった産業革命の頃からの短い歴史のみに限ってさえ、数学 と数学の応用がなされた歴史を振り返ると、産業界や科学分 野からの現時点での要請への対応だけでは、その真の要請に は応えられないことが分かります。そのような貴重な応用可 能性を広げるためにも、応用・基礎理論研究部門においても、 その所属教員の多くは、すでに産業界との共同研究に従事し ています。また、上記部門の他、産業界等が直面する数学的な 問題の相談に応じるため「技術相談窓口」を設置しました。本 年2月には、窓口の充実を図るために、国内外の企業等におけ る研究開発部門で長く活躍し数学活用に豊富な知識と経験を 持つ教員を新しく配置する予定です。

ところで数学においても、これまで多く、応用数学・純粋数 学という区別がなされてきましたが、本来数学は一つです。純 粋数学として研究されてきたものでも、応用されれば応用数 学です。逆も然りです。たとえば、セメントの品質安定のため の制御解析から出発した赤池情報量規準(AIC)に代表される ように、力強い技術の背後には豊かな数学があります。確率論 における伊藤カリキュラスは、金融工学という創始者も予期 せぬ方向に展開し、現代社会をグローバルに大きく動かす原 動力になりました。数百年もの間、応用を持たないと信じられ てきた整数論でさえ、素因数分解の計算困難性に着目し始まっ た暗号理論の基礎として現代の情報セキュリティに不可欠で す。このように、アイデアの発見・定式化以来数十年、場合に よっては1世紀以上にわたり、数学的な考察を進め高く改良・ 発展しながら形成され磨かれていった革新的技術は、普遍性・ 汎用性に富み、現代社会を根本から支えることになります。 IMIでは、このような適用普遍性・汎用性を備え、長く社会の 基盤を支えることができるような数学技術の創出を重要な研 究目的としています。したがって、産業や諸科学における実課題の数学的定式化や、見方や考え方を明確にする数学的事実 の記述である「定理」の発見に留まらず、それを、アルゴリズ ムの構築にまで昇華してゆくことが重要だと考えています。 先述の「AIC」や「情報幾何」のように応用を目的として作ら れたものと、確率論というそもそもの応用研究分野から出た ものの「伊藤カリキュラス」のように予期せぬ応用が見つかっ たもの、「整数論」のように純粋数学として独自に発展し全く 応用を想定していなかったもの、という3つの異なるカテゴ リーを踏まえた上での、普遍的な数理技術の構築を重視して 学術発展させようとの考え方は、IMIの、別の角度からの理念・ 性格付けにもなっています。


計算機演算速度の劇的な向上と高度化が進む
科学技術計算

わが国の応用数学は、理学部数学科以外の学部において数 学に秀でた物理系・工学系研究者がその発展の大きな一翼を 担ってきた歴史があり、80年代までの日本高度成長期の原動 力となった科学技術の基礎を支えていました。90年代に入り 計算機の演算速度が格段に向上したことに加え小型化が進み ました。さらに、90年代のスーパーコンピュータが達成して きたGFLOPSレベルの演算速度は、現在では市販されている 安価な1台のPCで実現できるまでに至っています。そのため、 90年代以前では(応用)数学(の力)を駆使することなく科学 技術のシミュレーションを行うことは困難でしたが、現在で はその計算を現実的な時間と予算で行うことのできる状況に 変化してきました。さらに、ハードウェアのみならず、建築、 機械、電子部品の設計で使われるCADシステムに見られるよ うに、科学技術計算を行うソフトウェアも高度化の一途です。 そのため、高度な(応用)数学を駆使することなく、システム で利用されるパラメータを調整することにより、比較的性能 の良いシミュレーション結果が得られる状態となっています。 しかしながら、不幸なことと言わざるを得ませんが、2000年 以降の科学技術計算で用いられるソフトウェアの多くは海外 で開発されており、日本においては科学計算ソフトウェア開 発の空洞化が進んでいるのが実態です。このような状態が続 くと、ブラックボックスを残したままで、研究を進めることに なりかねません。

海外に決定的に遅れる日本の数学理論
ソフトウェアの開発

海外では、30年前頃から大学の数学科が中心となって数学理論ソフトウェアが開発されてきています。たとえば、国際的に定評のある数学理論ソフトウェアの例として、代数計算用のMagma(シドニー大学数学・統計学科)、Maple(ウォータールー大学数学科)、 Pari/GP(ボルドー大学数学科)、統計解析用のR(オークランド大学統計学科)、数値解析用のMATLAB(MathWorks社+ミネソタ・スタンフォード大学数学科) 、そして、3Dコンピュータグラフィック用途のMaya(Autodeck Research・トロント大学)などがあります。著名な理論物理学者であるウルフラムが数学者とプログラマのチームを率い て作った Mathematica (Wolfram Research)は、プログラミング言語としても強力です。これらの数学理論ソフトウェアは、諸科学分野の大学関係者のみならず産業界の業務でも広く利用されています。さらには、最近になり、幾何ホモロジーの 計算ライブラリChomP(ラトガース大学数学科)が発表され、画像処理、タンパク質構造解析などの分野に応用可能となる新たな発展も見せています。また、アニメ製作・ゲームソフト作成等に利用されている微分幾何学をベースとした離散幾何 ソフトウェアj-Reality(ベルリン工科大学数学科)なども、進化が著しい分野です。なお、このソフト開発の中心人物で、現ミュンヘン工科大学の Tim Hoff mann教授は、IMI客員教授であり、現在推進中の文部科学省グローバルCOEプログラム 「マス・フォア・インダストリ教育研究拠点」の事業推進担当者でもあります。

このような状況下、IMIの研究活動を本格的にかつ直接的に世界に発信するため、新しくマス・コンプ創造ラボ(Creation Laboratory of Mathematics Computation:CLMCと称します)を本年早々に新設する予定です。研究所で 発見された数学理論・定理をソフトウェアとして実装し、産業界や研究機関に公開・提供を行うことを目的としたラボです。内容的には、抽象化された数学の理論や定理を、アルゴリズム化し、さらにソフトウェアとして実装し、産業界や諸科学分野における最先端研究現場の使用に資するよう、国際的に公開して行くこととなるでしょう。

CLMCの設立により、IMIは、産業界や諸科学分野からの要請に応えようとすることで新しく生み出される数学の発展とともに、それを、諸科学・産業界へ直接的・具体的に還元・応 用する強力な機能を備えることとなります。近年、工学、経済学、生命科学をはじめ、たとえば、自然・人的災害に対する予知、対応、復興に関しても、数学が果たす役割は想像以上に大きいとの国際認識があります。また、数学の理論では、対象の「存在」 は証明されているにも関わらず具体的に計算(構成)する手立て(アルゴリズム)がないもの、あるいは、構成的に存在が示されているにも関わらず計算量の多さや複雑さから効率的に例が計算できず理論の発展が進みづらいものや、さらに、応用が 明確に期待されているにも関わらず計算が困難なものも多いのが現実です。CLMCが、このような困難を克服する突破口となり、産業界や諸科学領域とIMIとの連携研究・人材(育成)交流が2次元的に面として広がることを願ってやみません。


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