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特集:これからの産業社会と数学

自動車開発での数学と物理の役割

トヨタ自動車株式会社 理事 大畠 明

日本で「数学が好きだ!」と言うと変人扱いにされてしまう ようです。技術者間でも、数学は難しいだけで役に立たない、 などという会話が当たり前になされています。私は、自動車会 社に入社して30年以上経ちますが、その間に数学に対する偏 見をいろいろ経験してきました。 こんなことがありました。ピストンの図面を描いていた際 に、少し複雑になったピストン形状のある部分の容積を計算 するために三角関数を含む計算をしていたところ、それを見 ていた先輩から「入社以来、四則計算しか使ったことがない。 ときどき、√を使うくらいだ」と言われました。しかし、私の 設計したピストンは想定した通りの良い性能を出しました。 排気系に装着するリアクターという排気ガス浄化装置の設 計で、内部のガス容積をできるだけ大きくすることが求めら れ、形状が複雑だったのでうまく搭載するためにいろいろな 計算をしたこともあります。でき上がってみると私の設計し たリアクターは他の設計よりもうまく搭載できて、かつ、これ までよりもかなり性能が良かったのです。実験レベルではあ りましたが、私たちのグループで初めて触媒無しで排気ガス 規制を通したシステムは、このリアクターを搭載したもので した。

今では、こうした計算はCADで簡単にできるようになって います。しかし、だから数学は要らないということではありま せん。私が申し上げたいことは、「良いものを作るためにやら なければならないことは、どんなに面倒であってもやらなけ ればならない」ということです。それでなくても、CADや各 種のツールが発展した現代では、従来よりもこうした設計は、 簡単にやれるようになっているはずです。

対象の動的振る舞いをシミュレートする微差分方程式に基 づくモデルは、実験データと合わないから役に立たないと散々 言われてきましたが、モデルと実験データが合わない理由を 調べていくと、対象のハードウェア側の問題や実験上の問題 が次々に見つかり、それを直すとどんどん実験データとモデ ルが一致していくことも経験しました。

電子燃料制御の採用により吸気系の自由度が増えるので、 吸気系の形状を最適化しエンジン性能を向上せよという仕事 が与えられたとき、実験データから吸気圧力脈動の重ね合わ せが想像以上に良い精度で成立し、古典制御理論で勉強した ラプラス変換が有効なことがすぐにわかりました。そこで、時 間方向と吸気系の長さ方向にラプラス変換を適用し、粘性付 きの波動方程式を解くと、吸気圧力脈動をうまく記述でき、エ ンジン速度方向のエンジン性能も良い精度で予想できると考 えました。このことを利用して、可変吸気システムを大局的に 概観できる設計法ができたのです。結果的には数学もモデル も、非常に役に立ったと言えます。

他の人は数学やモデルを使わずにどのように設計し実験 データなどを解析するのか、私個人としては、数学やモデル抜 きの設計や解析というのは全く想像もつかないところがあり ます。もしかすると、工学としての最適設計を実際に行ってい る人は、意外に少ないのかもしれません。多くの人は前例を ベースに多少の改良を行い、それを積み重ねるというアプロー チを取っているようです。それが素早くできるならそれで良 いのですが、多少複雑なケースになると行き詰ってしまうこ とが多いように思えます。そうしたことが理由で行き詰った 開発に助力を頼まれ、数学の知識で解決してきたことも、思え ばいろいろあったような気がします。

たとえば、あるエンジン制御システム開発が思うように進 展しないということで呼び出され、その開発に関わることに なったことがあります。このときは、モデルを用いて開発の鍵 となるセンサーの仕様を決定し、複数の制御戦略候補から納 得できないものを外して1つに絞り込み、モデルから制御を 導出した結果、ほぼ3 ヶ月で目処が付きました。これは、私が 経験したモデルベース(MBD)開発を適用した量産開発の最 初の例となりました。

図1 制御システム設計ワークフロー

ハイブリッド車の開発でも、始動すると逆走したり、駆動系 に振動が発生したり、駆動系が破損するなどで、もろもろ行き 詰っているというので、夏休み最後の日に呼び出されたこと があります。そのときは、駆動系の図面とハイブリッド制御の 仕様書を見せられ、どうしたら良いかアドバイスしてくれと いきなり言われたのですが、制御コンセプトに関する限りで きない理由はないように思えました。ただ、気になる点として、 第1に、エンジンマウントがあまりに華奢に思えること。第2 に、制御に関しては場合分けが余りに多く、特にダイレクトパ スが3箇所あること。第3に電池の充電状態推定解像度が粗い こと。この第3の問題が第2の問題と絡むと駆動系振動の引き 金になりそうでした。第1の問題に対しては、エンジンマウン ト仕様の再検討をお願いし、第2の問題には、モデルから導出 した制御を提供して、それを参考に制御を見直すように求め ました。第3の問題に対しては持ち帰って充電状態推定ロジッ クを開発することにし、後にオブザーバーに基づく充電推定 ロジックを提供しました。結果的には3点とも妥当な指摘だっ たようで、ハイブリッド制御のロジックは、基本的には前進と 後退の切り分けになりました。この改良策により、充電状態推 定は連続的に行えるようになってバッテリー制御が駆動系振 動を引き起こすことは無くなり、同時に燃費計測精度も向上 できました。加えて、ハイブリッド車のモデルを用いたSILS (Software In the Loop Simulation)によって、ハイブリッド 制御の信頼性確認も効率よく行うことができるようになりま した。これは、モデルベース開発適用の2番目の例です。 制御システム開発において、「要求とは何か?」ということ が問題になります。しかし、議論は続きますが、さっぱり結論 が出ないということもよく起こります。こうした議論では、制 御理論の話題はほとんど出てきません。図1は制御システム 設計のワークフローを示しています。制御理論では、制御対象 の振る舞いの知識、望ましい制御システムの振る舞いの定義 (制御対象の振る舞いモデル=プラントモデル)、満たすべき 拘束条件から、制御が求まると教えられています。しかし、開発というものは必ず未知な要因を含んでおり、事前にその全 てを知ることはできません。したがって、開発初期にはプラン トモデルや望ましい制御システムの振る舞いの定義も不完全 だと言えます。制御システム設計と評価を繰り返すことで、こ れらは明確になっていくわけです。言い換えれば、未知なもの を明確にしていくことが開発であるとも言えましょう。


しかしながら、機能要件・非機能要件という言葉は頻繁に 使われるが、プラントモデルの話はほとんど出てきません。制 御理論の立場からは、要求と言われるものが入力と出力を反 転させた逆モデルの場合もあります。要求は言葉で表すもの という前提もあるようで、実際に制御システムを開発する立 場からは、非常に奇妙に感じられるところです。現象を見れば 良否が直ちに判断できるが、言葉ではとても表し切れないこ とは数多くあるからです。要求は言葉で表すべきものという のは、開発者が一般ユーザーにヒヤリングする場合のような、 言語ベースのコミュニケーション手段しかない場合に適用さ れる概念のように思えます。我々は開発のプロであり、言語以 外にも各種のコミュニケーション手段を持っているわけです。 制御理論というと、非常に矮小化された漸近安定性証明に押 し込まれ、実用的でないと勝手に決め付けられているような ところがありますが、決め付ける前に、理論が何を教えてくれ るのかをよく考えてみるべきだと思います。そうでないと、本 質を見失う危険があるでしょう。

ある仕事をする場合に、その仕事の質は、どれだけ対象につ き深く考え、精度の高い予測ができるかに関わっているよう に思えてなりません。そうなると、それはモデル化の問題であ り、精度の高い予測を行うためには数学の力に頼らざるを得 ないことになります。そこからやるべきことを明確にして実 行すれば、ほとんどの問題は解決されるというのが私の個人 的な意見です。そのための道具が物理や数学なのです。腕の良 い職人は良い道具を持っているものです。通常、道具にはいろ いろな工夫が施され、より仕事に適合したものになっていま す。良い例が仏師の金槌やカンナ、ノミの類です。既存のツー ルをただ使うだけではなく、みな仕事に応じていろいろな工 夫をして使っているのです。金槌、カンナ、ノミは誰でも簡単 に使える道具ですが、うまく使うには経験と熟練が必要であ り、また、道具を目的に応じて変化させることも必要です。職 人の「良いものを作りたい!」という熱意がそうさせるので しょう。道具とは、本来そうしたものだと思います。

数学は人間の思考にとって最も基本となる道具です。そし て、どのように考えれば良いかを的確に教えてくれるもので す。さらには、問題の全体像を俯瞰できるようにしてくれ、か つ、その詳細も教えてくれます。世の中のあらゆるものは物理 法則に支配されています。ソフトウェアでさえ、開発者は意識 していないとしても対象の物理が反映されているはずです。 したがって、物理法則に基づくモデルは現象の本質を的確に 教えてくれます。しかし、本質を追求しようと努力し、どうし たら良いものができるか真剣に考え、道具を磨く努力が無け れば、幼児に与えた金槌程度の効果しか得られないでしょう。

「数学は必要ない!」、「モデルは使い物にならない!」とい う考え方は、「自分は真剣に考えていない」、「良いものを生み 出す工夫もしていない」、「面倒なことはやりたくない!」と いったことを公然と言明しているようなものだと思います。 科学と工学は人間の知の集大成であり、万人が等しく使え るように進化してきたものです。これを無視して我流を通す のは、奢り高ぶった態度と言われても反論はできないでしょ う。まず、全ての偏見を捨てて、人間の知の集大成と向き合っ てほしいと思います。そして、それを少しずつ理解して、何と か自分の目的に合った使い方ができるようになりたいもので す。それができなければ、どのような素晴らしい知識も、幼児 に与えた金槌程度のものにとどまってしまうのですから。

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